鷹山宇一について
About Uichi Takayama
画家鷹山宇一のはじまり
生涯現役で活躍し続けた鷹山宇一。私は、彼を絵描きの道へと導くことになった「初山滋」という人物が気になった。それは鷹山が小学校4年生の時。当時のことを次のように語っている。
ー小学校4年の当時受持教師であった歌人青山哀囚の文学的な薫陶は今なお脳裏に残るのである。この教師に接することがなかったらおそらく別の道に進んでいたことであろうか。ー(美術誌「美術ジャーナル」掲載『蒼の東洋的幻想』鷹山宇一より)
「別の道に進んでいたことであろうか」という言葉からその影響の大きさがうかがえる。青山哀囚は児童文学雑誌「赤い鳥」を教え子に回覧させた。特に少年鷹山の心を掴んだのが初山滋の描くロマンティックで幻想的な世界である。鷹山を絵描きの道へと進ませた初山滋はどんな絵を描いていたのだろうか。
初山滋は、大正6年に初めて、少年のための月刊総合誌「少年倶楽部」の口絵を担当し、その後「おとぎの世界」「コドモノクニ」から絵本に至るまで挿絵や装丁にロマンティックで幻想的な童画の世界をつくりだし、版画家としても活躍した人物だ。恥ずかしながら今回初めて初山滋の絵を拝見した。透明感があり、胸にすっと入り込んでくるような何とも美しい色使い、そして画面全体が清々しい空気に包まれており、子どもでなくてもその世界観にうっとりしてしまう。
私は、鷹山先生のある絵を思い出した。「森の馬」である。深い緑に覆われた森の中、上を見上げると青い空が覗いている。画面手前では蝶が3匹舞い、奥では一頭の馬がこちらを見ている。ぽつぽつと黄色く浮かび上がるのは花だろうか。より一層この空間を幻想的な世界へと導く。おとぎ話の1ページに出てきそうな作品である。
実際に、初山滋の影響がその後の鷹山の絵にどのように現れているのかどうかは、私自身の今後の研究課題ともいえるが、絵の持つロマンチックで、幻想的な雰囲気が似ていると感じた作品である。
が、絵の持つロマンチックで、幻想的な雰囲気が似ていると感じた作品である。
少年鷹山の心を魅了した初山滋の絵に、私もすっかり心を奪われてしまった。
学芸員 遠藤未奈子
森の馬
1960(昭和35)年代、キャンバス・油彩
森と花
画面の手前、中央には花瓶に活けられた色とりどりの花束が配置され、背景には透き通った緑の森が広がっている。花に誘われた蝶たちがまるで遊んでいるかのように舞っている。なんとも透明感のある絵だ。1966年、鷹山58歳の時の作品「森と花」である。「じっ」と絵と向き合うと、不思議とその絵の放つ清浄な空気に包み込まれてしまう。そのような感覚はこの絵に限ったものではない。鷹山作品を目の前にすると、各々の絵が放つ空気に包まれるのだ。いったいこの感覚はどこから生まれるのだろうか。
その答えとなるヒントが「ランプ」にあった。
鷹山はランプのコレクターとしても知られている。ただただガラスが好きでたまらない気持ちがコレクションに結晶したという。鷹山自身がランプについて次のように語っている。
―私の絵がほかの方とちょっと違うなと、もし感じとっていただければ、その違うなにかはガラスの光の有無だと申し上げたいのです。私は誰の目にも透明に写る絵を描こうと思っているわけで。これは別にガラスを描くということでなくどんなに絵具を厚く塗っても、ガラスのような透明な色彩と感覚を表現できたらと―
「なるほど。」私は思わずそう口に出してしまった。ランプと絵がここで結びついてくるとは。作品が持つ透明感はここからくるのだ。ランプのコレクションは大小合わせて1,500点程だという。その一つ一つデザインも違えば、ガラスの色・形も違う。それぞれが放つ光が違ってくる。しかしどの灯りも人々を優しく照らしてくれる。
鷹山の作品にも同じことが言えるのではないだろうか。その作品だけが放つ空気・光がある。それは絵を見る人によっても感じ方は違うかもしれないが、清澄な空気で包み込まれるその感覚は、多くの人に感じていただけるのではないだろうか。
ランプを愛した鷹山だからこそ描ける透明感・光がある。是非一度、鷹山がつくり出す清澄な世界に浸ってみてはいかがでしょうか。
学芸員 遠藤未奈子
森と花
1966(昭和41)年、キャンバス・油彩
第51回二科展(青児賞)
花と蝶を描く画家
雪国に暮らす者にとって春は大変に待ち遠しい。ようやく3月に入ると日差しも柔らかに、暖かさを増していく中で氷も徐々に解けて、いよいよ春がやって来たか、と頬を弛ませると意地悪くもまた雪の日が続いたりする。手が届きそうで届かない「春」をじれったく思う。
『早春賦』は、花瓶に活けられた花々を前景に、背景には様々な風景を配するという、鷹山宇一の代名詞的な構図を見ることができる。画面は一見して至極シンプルだが、必要最小限のモチーフと空間は絶妙に均衡を保ち、かえって見る者の想像力をかきたて奥が深い。70余年の長きにわたり絵の道一筋に生きた画家の力量を感じさせる作品である。
花たちは彩りも鮮やかに、その彼方に青みがかって見えるのは残雪の山であろうか、現実にはありえない非日常なこの組み合わせを深い闇が静かに結びつけ、私たちは思い思いに物語を創り出す。
今、七戸の地から八甲田の山々を望む時、この作品がまさに春の訪れを待ちわびる雪国の人々の心を描いているように思えてならない。それは、鷹山自身の心でもあり、ふるさとの思い出と共に画家の胸に刻み込まれた原風景なのかもしれない。
鷹山の生まれ育った地に建つこの美術館で、『早春賦』は静かに皆さんとの出会いを待っている。
学芸員 大池亜希子
早春賦
1990(平成2)年、キャンバス・油彩、60.8×50.5cm
1990年春季二科展
人間は生まれて来ただけで価値がある
三姉妹の長女に生まれた私は、鷹山姓を名乗っていましたが、長い間子どもがおりませんでした。父・宇一はそんな私に「鷹山の家が君の代で終わって何が悪い。」と申し、決して跡取りのことは口にしませんでした。父母の思いはよくわかっていながらも、毎年歳を重ねていきました。
そんな四十歳を優に超えた私に、誰しも想像だにしていなかった突然の男子出産でありました。
なにより八十四歳で嫡孫に巡り会えた父の思いは言葉で言いつくせぬものがあり、画家鷹山宇一は、この無上の喜びを、作品「小さな世界」で表現をしました。
生物の母体である海を主題に、波打ち際に遊んでいる小さな蟹を手前に描き、その子蟹を見守るがごとく波上に蝶が飛び、遙か水平線には、父の託した夢や希望が光り輝いている。― 文字通りの逸作であります。厚意で美術館に飾られているこの作品を見るたびに、溢れるばかりの父の愛情と、わが子を初めて抱いた時の感動が昨日のごとく甦ってきます。
お七夜の時、父はそっと赤ん坊を胸にし、「七年間は長生きしなければ坊やに忘れられてしまう。」と笑いながら、「よく生まれてきた。人間は生まれて来るだけで価値があるのだ。」と言葉を続けました。
私たち娘が生まれた時、孫たちが誕生した時、又、己自身を奮い立たせるとき、父は何度かこの言葉を口にしたのだろう
― 人間は生まれて来ただけで価値がある ―
私もこの言葉を反芻しながら涙を押さえることができませんでした。
「風樹の嘆」の如き、孝養を尽くしたい時には親は待っていませんが、「小さな世界」は、私にできたたった一つの親孝行のまねごとでした。
館長 鷹山ひばり
(鷹山宇一長女)
小さな世界
1993(平成5)年、キャンバス・油彩、72.8×60.8cm
1993年春季二科展
新しい価値の創造に向かって
春夏秋冬、フトした瞬間に季節の移ろいを肌で感じる時がある。それは日差しの柔らかさであったり、影の色、風の匂いであったりと様々だが、鷹山宇一の『縹渺夢幻』に、私はここ七戸の、秋から冬へと移行する季節の変わりめを見たように思う。
1995年9月、第80回を記念する「二科展」がおなじみの上野・東京都美術館において開催された。いかにも二科らしい200号、300号といった大きな作品が並ぶ代表作家たちの部屋の中に、鷹山の作品は、いつものように異彩を放ち、格調高く静座していた。しかし、その作風はというとあの代名詞的な「花と蝶」ではない、新たな局面を見せていたのに大きな驚きを覚えたものである。清新な変化を遂げたその作品『縹渺夢幻』は、画風を確立した、87歳を迎えようとしている画家のものとはとても思われない。それは「新しい価値の創造に向かって」との二科会趣旨を正に鷹山自らが体現しているかのようで、半世紀を二科会と共に歩んだ、さすが重鎮をなした画家ならではの作品であった。
緑がかった青を基調とした、鷹山独特の透明感にあふれた画面は、澄み渡った空が広がる晩秋の早朝、はじめて外気に触れた時のピーンと肌を刺す、清浄なあの空気、「冬」の訪れを予告するあの空気を感じさせる。
生涯の大半を東京に生きた鷹山ではあるが、ふるさとの記憶は体中に浸透して画家の核心部分に確かに止まっている・・・それは、同じ土地で生きたもの同士が「共有」し得た感覚なのだろうか。作品を前に、同じふるさとを確信した瞬間であった。
学芸員 大池亜希子
縹渺夢幻
1995(平成7)年、キャンバス・油彩、116.7×116.7cm
1995年 第80回二科展
鷹山宇一の木版
1930(昭和5)年は、鷹山宇一にとって劇的な、ひとつの節目となる1年であったに違いない。日本美術学校を卒業した年であり、二科展に木版画2点が初入選を果たした。そして、今日当館が把握する限りでは、この年に制作された作品は油彩画、木版画と混在しており、鷹山の画家としての方向性を探る様々な試みがなされたであろうことを想像することが出来る。
油彩画は、当時流行のフォーヴィスムを踏襲した、茶系の絵の具を幾重にもキャンバスに塗り重ねたような作風で、モチーフに都会の風景を描いているのが特徴的。一方木版画はというと、これもまた当時の日本洋画界の最先端をいくシュルレアリスム風の、しかもかなり手の込んだつくりであり、気に入った1枚が刷り上がると版木を全て壊してしまったという。
機械シリーズとでも言えようか、対をなすようなこの『機械と虫』『機械と鳥』は、鷹山が自宅アトリエに長く秘蔵していた木版画で、おそらく同年の1930年に制作されたものだろう。巧に計算された画面配分、直線や曲線などを用いた幾何学的な構図は、鷹山のデザイナーとしての側面を覗かせている。また、モチーフにも目を引くものがある。特に機械として表現されているものはどうしたことだろう、無機的なモノであるはずの機械はまるで感情を持った「生きもの」のように見えてはこないだろうか。「機械を擬人化」した、いや逆に、「人間が機械化」したかのようである。自然が創り出した同類であるはずの虫や鳥そして人間が、ここでは、人間だけ切り離されて機械と同化している。
画家を志し青森を飛び出して3年。憧れの東京にはこれまでにない新しい世界が広がっていたことであろう。街並みも人も、すべてが画家魂を揺さぶるスパイスであったに違いない。これらは鷹山独特の感性により昇華され抽象化されて、鷹山宇一の「都会風景」としてここに表現されている、そのように思えてならない。
学芸員 大池亜希子
機械と虫
1930(昭和5)年、紙・木版
機械と鳥
1930(昭和5)年頃、紙・木版
若き花
暗黒の闇の中に凛と咲き誇る若き百合の花。
宇一33歳の作品だ。三十代前半何をやっても空回りし、能力の限界を感じて憔悴しきっていた時、私はこの作品に出会った。
正面と右側の百合はその豊潤な姿を「これでもか」と剥き出しているが、左の百合の花は固い蕾のままである。
背後の岩山から「不安」が次々と生まれ、それが段々と大きくなり、その未熟な蕾に襲いかかろうとしている。
動くことができない植物はその絶望の中から希望を見い出すが、私が感動したのは「根」の美しさだ。誰れの目にも触れることがない深い土壌の奥で、光に導かれるように美しい曲線を育てているこの「若き花」の意志に私は再起を誓った。
人生は常に苦難の連続だ。好む好まざるに拘わらず時には大きな波を被ることもある。しかし動じぬ軸足を持って生きていくことが戦いである。「名声」とか「評価」と云った、後から他人がつける虚しいもののために私たちは生きているのではない。
人間は「一番困難の時どう生きたか」がその人の真価である。苦しんで過ごした刻こそ「育ちの時間」だ。
玄冬を越し新しい旅立ちの季節。努力が報われず不本意な結果しか出なかった人生もあろう。しかし「負けない」で欲しい。
ひっそりと人知れず所に大輪の花を咲かせる人生もある。時代が追いつくこともある。己が納得した美の造形を造っていくことが苦悩の代償であり人間が生きてきた証だと、私は思う。
館長 鷹山ひばり
若き花
1941(昭和16)年、紙・木版
1941年デッサン社主催展
鷹山宇一のデッサン
1998年、東京国際美術館で「鷹山宇一卒寿記念展」が開催されました。展覧会の祝賀会で鷹山は、「若い時から売り絵作家だった私は、自分の研鑽の場として50代までの間、何千枚ものデッサンを描き続けて参りました。仕事の合間を見ては写生したり、素描をしたりの繰り返しでした。昆虫や植物も本物を見て描き続けたために様々なものを観察する訓練ができたお陰でしょうか。私は花と蝶を描く作家になりました。」と語っています。
鷹山の油彩画を見たときに感じる、ここではない幻想の世界へと引き込まれるような感覚は、その裏にある修練の賜物なのだろう。高い写実能力だけでなく、さらに目には見えない空気感さえも確かに捉え、描き切ってしまう。「自分の研鑽の場」として、画家として確立してからもなお、訓練を惜しまず、対象に向かい続けた鷹山だからこそ描ける唯一無二の幻想世界が創り出されるのでしょう。
鷹山宇一のデッサンから「花」をご紹介します。
パステルで描かれたこちらの作品は春の暖かな風と光を感じ、どこからか明るいメロディーが聞こえてきそうなそんな作品です。繊細な描線で捉えられた花々は、不思議と揺れ動いているかのような雰囲気を生み出し、軽やかに舞う2頭の蝶がリズムを添えます。
学芸員 遠藤未奈子
花
1960(昭和35)年代、デッサン・パステル
ガクアジサイ
それは長い梅雨がやっと明けた七月中旬のことだった。
長雨でなかなか乾かない小品を父は庭に干していた。中野駅から徒歩三分で50坪の庭が付いたマンション。自宅庭から隣接した料亭「ホトゝギス」のうっそうとした木々が借景となり都内とは思えない景観に誰もが感嘆した。そんな庭に白のガーデン円卓と椅子の上に父の作品が置かれ、幼い孫達が仲良く遊んでいる。映画のワンシーンのようであった。
しかし穏やかな昼前の平和が突然父の叫び声で吹っ飛んだ。昼食の仕度をしていた孫の母親たちは慌てて庭に飛び出した。子どもの身に何が、と私は激しい動悸と闘いながらテラスに出た。
何と庭では子ども達がパイル地のパンツを脱いでキャッキャッと声をあげている。よく見ると干してある絵に向けて小ちゃなオチンチンを出していた。小品の真中に描かれている赤い薔薇にオシッコを引っかけていたのではないか。たまたまアトリエの窓から父が見つけ大声を出したのだ。オロオロしている妹たちのそばに朝から庭仕事をしていた母がホースを持ってきた。勢いよく出した水で母は平然と絵を洗い始めた。父は安堵して窓を閉め、叱られた孫たちはシュンとなり、妹たちはタオルでそっと絵を拭く。母は何事もなかったように挿し木から大切に育てている「ガクアジサイ」に水を遣り始めた。
母の口癖は「命に拘わること以外、人生に大したことはない」である。家事が嫌いで誰かが食事を作ってくれるまで庭で好きなことをしていた母。大雑把と言うか、雑と言うか、面倒なことを嫌う母が、繊細でデリケートな父をどれほど救ったことか。私は父の細い、母の太い神経も決して欲しくない。ごく普通の神経で日々を過ごして行きたいと思ってから40年以上の月日が過ぎた。
館長 鷹山ひばり
紫陽花
1956(昭和31)年、デッサン、鉛筆・水彩