コレクション
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鳥谷 幡山(1876~1966)
とや ばんざん
青森県七戸町瑞龍寺22世鳥谷丹堂の次男として生まれる。
名は「又蔵」と言い、「幡山」は画号で七戸町の「八幡岳」による。七戸では高等小学校までの少年期を過ごし、その後函館工業に入学するが、画家への夢を諦めきれず、明治28年に上京し、日本画家寺崎広業に師事。広業は当時新進の日本画家として名をあげ、後に東京美術学校教授を務めたほか後年は文展を中心に活躍。その広業のもとで下働きをしながら、最終的には塾頭になる。東京美術学校では、狩野派最後の巨匠と称された橋本雅邦に認められ、宋風の絵を学んだ。
また、幡山と言えば「十和田湖」を愛し、全国に紹介し、宣伝に尽力したことでも知られている。明治28年に初めて訪れた十和田湖のその神秘的な美しさに魅せられ、生涯にわたり十和田湖を題材とした作品を描き続けた。
十和田湖西湖
1942(昭和17)年、軸装・絹本淡彩
年譜
1876明治9年 | 1月18日、青森県七戸町に生まれる。 七戸町瑞竜寺22世鳥谷丹堂の二男。宗門の規則で中野家の二男又蔵として戸籍にされる。 |
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1891明治24年 | 七戸尋常小学校卒業。長兄を頼り北海道へ渡る。函館商業学校へ入学。 |
1894明治27年 | 函館来遊中の日本画家・寺崎広業と出会い、旅館に訪ねて師弟の約を結ぶ。 函館商業学校を中退。 |
1895明治28年 | 4月、上京し寺崎広業の門に入る。 6月、初めて十和田湖を探勝、その神聖な美しさに魅せられ、以降は十和田湖を好んで描き、その紹介に努めた。 |
1896明治29年 | 9月秋田出身の日本画家・平福百穂にすすめられ、東京美術学校(美校)の臨時入学試験を受ける。美校教授の日本画家・橋本雅邦に認められ、2年生に入学、橋本の教えを受け宋元風の絵を学ぶ。 |
1898明治31年 | 美校ストライキ(校長岡倉天心罷免)に連座して退学。 |
1913大正2年 | 台湾・中国・朝鮮周遊の旅に出、半年後に帰国「支那周遊図録」を出版する。 |
1922大正11年 | 「十和田勝景画譜」を出版、大町桂月が序文を書く。 |
1925大正14年 | 日本画家・川合玉堂等と東洋美術学校の創立運動を起こす。 |
1927昭和2年 | 「十和田湖大観」を出版する。「十和田勝景画譜」共々、天覧を賜っている。 |
1931昭和6年 | 第1回東奥美術展日本画部門において、野沢如洋、蔦谷龍岬と共に審査員を務める。 |
1933昭和8年 | 第5回北斗会展に出品する。 新宿三越で個展を開催する。 |
1934昭和9年 | 第6回北斗会展に出品する。 |
1942昭和17年 | 第2回岩手美術連盟展に出品する。 |
1955昭和30年 | 「日本のキリスト」を出版する。晩年は、三戸郡新郷村戸来のキリスト渡来伝説を世に紹介するのに専念した。 |
1958昭和33年 | 「回顧六十年」を出版する。 |
1966昭和41年 | 2月20日、永眠。享年90歳。 |
平野 四郎(1904~1983)
ひらの しろう
青森県七戸町に生まれる。
七戸尋常高等小学校卒業後、青森県立師範学校へ入学。この頃から本格的に絵の制作を開始し画家を志す。卒業後、三戸郡七崎尋常高等小学校の教職に就く。傍ら同郷の鷹山宇一との交流や上泉華陽を訪ねるなど、画家として制作活動を続ける。教職を辞し上京、川端画学校へ入学する。帰郷し、七戸尋常小学校へ復職するも画家への思いを断ち切ることができず再上京し、小学校の教職の傍ら制作活動を行い、大潮展、創元展、東京都教職員展等に出品。昭和54年蒼樹展で文部大臣賞を受賞。
消化される風景
1973(昭和48)年、キャンバス・油彩
年譜
1904明治37年 | 7月21日 父平野徳三郎、母やへの次男として青森県七戸町に生まれる。 |
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1920大正9年 | 七戸尋常高等小学校卒業、青森県立師範学校へ入学。この頃から本格的に絵の制作を開始。 |
1921大正10年 | 師範学校で図画担当の水谷先生に認められ、画家を志す。この年、棟方志功を知る。 |
1924大正13年 | 師範学校卒業、三戸郡七崎尋常高等小学校にて教職に就く。この頃から同郷の鷹山宇一との交流も盛んになる。画家を志す同士として画論を交わしたり、七戸に移住した画家・上泉華陽を訪問するなど、教職の傍ら制作活動を続ける。 |
1926大正13年 | 七戸尋常高等小学校へ転任。 |
1929昭和4年 | 一時上京し恩師・水谷先生、棟方志功、鷹山宇一らを訪ねる。画家となるべく再上京する意思を固める。 |
1930昭和5年 | 教職を辞し上京、川端画学校入学。 |
1933昭和8年 | 矢崎千代二パステル画会に入会、以後同会主催展へ出品。 |
1935昭和10年 | 帰郷し、七戸尋常小学校へ復職。 |
1937昭和12年 | 画家への思いを断ち切れず再び上京、荒川区大門小学校図画専科教員として勤務する。 以後、教職の傍ら制作活動を行い、大潮展、創元展、東京都教職員展等へ出品。 |
1946昭和21年 | 大潮会会員推挙。 |
1965昭和40年 | 東京都教職員展にて文化会賞受賞。 |
1967昭和42年 | 大門小学校退職。大潮展で会員努力賞受賞。 この頃から、生命のない対象に感情や生命感を盛り込んだ独自の幻想作品に取り組む。 |
1968昭和43年 | 創元会会員推挙 |
1975昭和50年 | 創元会、大潮会を退会し、創樹会創立に参加。 |
1976昭和51年 | 画業60年記念回顧展開催、同時に「平野四郎画業60周年記念回顧画集」を刊行。 第16回蒼樹展で文部大臣賞を受賞 |
1983昭和58年 | 12月3日、永眠。享年79歳 |
上泉 華陽(1892~1979)
かみいずみ かよう
山形県米沢市の士族の家に生まれる。本名は二郎。
父が獣医ということもあり、生家にはいつも何頭かの軽種馬が飼われていた。紙と筆さえあれば一日中厩で過ごしていたという。
明治32年、ロンドン土産に伯父からもらった、イギリスの画家ヘンリー・ハーネーの馬の画集に感動し、馬を描く画家になるべく東京美術学校に進学。卒業と同時に自分の理想とする名馬を求めて、国内はもちろん、中国、台湾、満州と奔走する。そこでたどり着いたのが、古くから名馬の産地として名高い七戸町だった。以来、七戸町に腰を据え、数多くの作品を描いている。
晩年は町内にある天王神社につつじの杜の造成に尽力。現在では、多くの観光客が訪れる町の名所になっている。
走馬
制作年不詳、軸装・紙本墨画
年譜
1892明治25年 | 7月3日、山形県米沢市の旧士族の家に生まれる。本名二郎。 父が獣医であったことから、生家にはいつも何頭かの軽種馬が飼われていた。幼い頃から馬と共に過ごす環境のなかで、自然と馬に魅せられ、紙と筆さえあれば1日中厩で過ごしたという。 |
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1899明治32年 | ロンドン土産に伯父からもらった、イギリスの画家ヘンリー・ハーネーの馬の画集に感動、画家を志す。 |
1913大正2年 | 3月、山形県立米沢興譲館中学校卒業。 |
1921大正10年 | 3月、東京美術学校(現在・東京芸術大学)西洋学科を卒業。 在学中は図書館にある資料をもとに馬の勉強に没頭、卒業と同時に自分のイメージにマッチした名馬を求めて、国内はもちろん中国、台湾などを奔走。 |
1923大正12年 | 北海道での取材の帰途、奥羽種馬牧場(現・家畜改良センター奥羽牧場)にて、名馬と出会う。 七戸町成田旅館に投宿。 以後、サラブレッド、アラブ種の多い名馬の産地・七戸町を第二の故郷として腰を据え、数多くの作品を描き続ける。 4月、皇太子殿下(昭和天皇)に「落雷の一瞬」を献上。 |
- 晩 年 - | 町内にある天王神社につつじの杜を造成すべく、一時筆を捨てて尽力。現在、七戸町の名所となり、5月中旬の開花の時期は町内外からの観光客で賑わっている。 地方にいながら絵筆一本で生き、「馬描きの華陽」と称され親しまれた画家。特に馬事関係者には有名で、県内外の馬事関係機関には油彩・墨彩等で描いた馬の絵が多数残されている。東京都府中市・東京競馬場内の「JRA競馬博物館」メモリアルホールにも、華陽が描いた顕彰馬「クモハタ」(油彩)が収蔵されている。 |
1979昭和54年 | 6月24日永眠。享年87歳。 |